黒い煙が、夜の空を覆っていました。
激しい炎が、民家の2階から噴き出しています。バチバチと木がはじける音が響き、熱気が皮膚を刺しました。
「ホース延長! 水圧よし!」
現場指揮官の太い声が飛び交います。消防士は面体を装着し、空気ボンベの残量を確認しました。
その時でした。規制線のロープを押し切り、一人の女性が飛び出してきたのです。
その女性は、裸足でした。長い髪を振り乱し、真っ赤に染まる家を指差して泣き叫んでいます。
「中に! 中にうちの子がいるのよ! たすけて! お願いだから、あの子を助けて!」
その声は、夜の悲鳴となって現場に響き渡りました。
「危険です! 下がってください!」
最前線の消防士が女性を押さえつけようとします。しかし、女性は狂おしいほどの力でそれを振り払い、消防士にしがみついてきました。
「お願い……あの子、まだ小さいの! 早く助けて……あんな熱いところに一人にしないで!」
涙と煤で汚れた女性の顔。その目は、完全に正気を失いかけていました。
「うちの子」という言葉が、胸を強く突き刺しました。
まだ、あの灼熱の部屋に取り残されている可能性がある。想像しただけで、背筋に冷たいものが走ります。1秒の遅れが、命取りになる。
「隊長! 救助に向かいます!」
「よし、二次災害に気をつけろ! 進入!」
消防士たちは、火の手に包まれかけた玄関へ飛び込みました。
家の中は、濃煙で視界がほぼゼロでした。ライトの光も、数十センチ先すら照らせません。熱気で防火衣が熱を持ち始めます。
「消火班、前方へ放水! 視界を確保しろ!」
激しい水流の音と、蒸気が吹き出す音が響きます。
「おーい、どこだ! 返事をしてくれ!」
消防士は声を限りなく張り上げながら、1階の部屋を捜索しました。押入れや、ベッドの下、机の陰を一つずつ確認していきます。
「隊長、1階にはいません! 2階へ上がります!」
階段はすでに炎が回り始めていました。一段登るごとに、温度がはね上がります。息が苦しくなり、汗が目に入って痛む。
それでも、あの女性の悲痛な叫びが頭から離れませんでした。
『あの子、まだ小さいの!』
母親の絶望した顔が、私を前へ押し動かします。絶対に助ける。生きて連れて帰る。それだけを考えていました。
2階の奥の部屋にたどり着いた時でした。炎の爆発音のすき間から、かすかな音が聞こえました。
「……ン……」
小さな、か細い声でした。
「いたぞ! 奥の部屋だ!」
消防士は倒れてきた柱を押しのけ、煙が渦巻く部屋の隅へ駆け寄りました。ベッドの脇に、小さな布団の塊がありました。
「大丈夫か! 今助けるぞ!」
手袋をした手で、慎重に布団をめくりました。
そこにいたのは――。
茶色くて、耳の垂れた、手のひらサイズの小さな子犬でした。
つぶらな瞳が、恐怖で震えながら消防士を見上げていました。
「……え?」
一瞬、思考が止まりました。
しかし、子犬は寂しそうに「クゥン」と鳴き、消防士の手袋に鼻を寄せてきたのです。
「隊長! 発見しました! 救出します!」
消防士は子犬を抱き上げ、防火衣の胸元にそっと包み込みました。そして、同僚と共に急いで炎の階段を駆け降りました。
屋外へ脱出すると、冷たい夜の空気があまりにも心地よく感じられました。面体を外すと、激しい咳が出ました。
「隊長! 救出完了しました!」
消防士の声を聞き、泣き崩れていた女性が駆け寄ってきました。
「あぁ……あぁ! うちの子! 助かったのね!」
消防士は胸元から、そっと子犬を出しました。
女性は子犬を抱きしめ、顔をうずめて大声をあげて泣きました。
「よかった……よかったわ、ポチ……! 本当によかった……!」
子犬は女性の顔を、嬉しそうに何度もなめました。
消防士は、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で耐えました。安心感と、どっとあふれ出た脱力感で、頭がクラクラしました。
(……“うちの子”って、この子のことだったのか……)
呆れ半分、安堵半分 の溜め息が、夜空に白く消えていきました。
後から聞いた話では、その女性は一人暮らしで、この子犬を本当の我が子のように大切に育てていたそうです。
燃える家を見つめながら、元気に女性の腕の中で跳ねる子犬を見て、私は少しだけ笑ってしまいました。
人間の子供ではなかったけれど。
一つの大切な命を助け出せたことに、変わりはありません。
「よし、撤収作業に入るぞ!」
隊長の声に、消防士は「はい!」と力強く答えました。背中の空気ボンベが、いつもより少し軽く感じられました。
この物語はフィクションですが、多くの方がこの話の結末に驚愕したのでは無いでしょうか?もちろん屋内進入の前に中に取り残された方がどのような人なのかは、検索隊員に伝えられ活動が行われます。
消防署には年に何回か動物救助の要請が入ります、そして私自身も1度だけ出動したことがあります。「国民の身体、生命、財産を守る…」という財産に飼い猫や犬が該当するという見解があるとのことです。
火災現場で子犬を助けに救助隊が向かうかどうかは別にして、現場の情報を迅速に、正確に掴むということも指揮隊には求められる能力です。先入観だけで、判断してはいけないという教訓ですね。
以上、報告終わり!


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